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『居合道真諦』その3
こんにちは。引き続き、河野百錬先制著『居合道真諦』のご紹介をしていきます。
六、血振いの事
- 血振いの時 剣先が手元よりも上がって居る人を見受けるが 之も誤りである。
正座の血振いは、斬下してから血振いの刀を振下す迄すべて切先下りに刀身を保持するのが正しい。
七、目付けの事
- 目付けは常に敵に、とワカリキツタ事が実行されて居ない人を多々見受けるが之は業の真意を解さぬ証左である。武道はすべて目付が肝要である。
八、生気の無い居合の事
- 古い同志の中に「気の抜けた物足らぬ居合だ」と注意され乍らも、自己満足によるものか「居合は業に丸味がなければ真の居合では無い」などと、初心者に教へるものがあると聞くが、かかる言は初心者を惑わす最も危険な言ひ方である。
居合に限らず如何なる業も其の極致はすべて丸味がなければならぬ事は勿論だが、居合の成り立ちが敵に対する刀法である限り、敵の心魂に貫通する(其の刀に触るるすべての者に)無限の迫力のある事が第一条件で、しかも其の業に丸味があり、侵すべからざる気の位ひを備へた生き活きと躍動するもので無ければ真の居合とは申しがたい。
見る人をして「気のヌケタ居合」と感じさせる様な居合は、元来平素修練の乏しい人の居合に多く見受ける処で、初心の間は角張つた、堅たいゴツゴツした居合が幾千万と錬磨の功を積んだ後、所謂る丸味を会得する事が道である、初心から丸味などの言に惑はされて日々の修錬を怠るものは、所詮は終生気の抜けた居合に終わらねばならぬ。
道に志すものの深く心すべき大切な心構へである。
他流の居合では切っ先上がりの血振いを多く見掛けますよね。
理合・想定が違うのでとやかくは申せませんが、血振いは刀に付着した血を振い落す所作ですので、切っ先上がりでは手元に柄内に血が入り込むのを防げないのでは?と筆者は思います。
生気の無い居合の件も、含蓄に富んだ文章ですよね。
前回も書きましたが、居合を始めて稽古を重ねるうちに、勝手に自分で解釈を始め、努力不足で動かない体を棚に上げて違うものを尤もらしく云われる方をやはり良く見掛けるのは悲しいです。
その業を出来た人、出来る人は現実に存在する、または存在した訳で、私は少しでもそれに近づきたいと日々の稽古に臨みます。
次回をお楽しみに・・・
2013/7/4 国際連盟ブログより再掲
World MJER Iaido Federation
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