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『居合道真諦』その5
こんにちは。『居合道真諦』のご紹介を引き続きさせていただきます。
十二、早や抜きの事
- 立膝の部の業を連続して行ふ早や抜きと、左手を柄にかけずに右手だけで之を行ふ片手早抜きと称する刀技があるが、之は刀の操作を馴らすために当流十七代大江範士が創案された刀技であるが、之はその目的が唯だ単に刀の操作にだけあるもので 従って真の居合とは全然別個のものである。
然るに此の事を辨へぬ者が其の技法の華を追ひ大会とか正式の場で、平然と之を演ずるものを見受けるが、正に居合の正道を踏み違えたもので嘆かわしい限りである。
早抜きの刀技は平素一人密かにその目的のもとに行ふ事は可なるべきも、正式の場合の居合としては絶対に行はぬ様、同志の心得て置くべき事柄である。
此の事は恩師の教へにより既に二十六年前の著書にも述べて置いたが重ねて茲に記す。
十三、片手抜き打の事
浮雲、戸詰、颪、惣留、などの片手抜打ちの場合ひ、刀刃を真上から真下に向けて抜付ける人を見受けるが、之も誤りである。
すべて此の場合の片手抜打ちは、やや左から右斜下に、即ち右袈裟或は右胸部から左脇腹に向け抜打つもので、真上からの片手抜打ちは不自然であり当流には左様な仕方は無い。◎抜付け(斬付け。片手抜打ち。)の刀法は大別して左記の三種がある丈けである。
(戸脇。連達。の片手突は抜付けとは別)- 一 横一文字(例。正座、初本等の場合ひ)
- 二 右斜下 (例。颪、行連、惣留等の場合ひ)
- 三 右斜上 (例。対者の右胸部又は右脇坪から右斜上に斬上る場合ひ)
- 一 横一文字(例。正座、初本等の場合ひ)
◎片手抜付けの場合ひ、真上から真下に又は、左斜下、左斜上に斬付ける様な刀法は無い。
十四、当流の正統と傍系の事
- 当流の居合を学びながら、当流の正流正統と其の傍系の伝系を辨へて居らぬ人が多々ある事はドウした事か。自分の学ぶ流派の所属と其の歴史に確信を持つ事は同志として大切な事である。
・・・以下、今回は省かせていただきます。
無雙直傳英信流の系統については別に機会を設けて考察したいと思います。
十五、居合道の回想
- 今回は省かせていただきます。
十六、居合道所感
居合の行者は、我が剣の触るるところ何者もを断ち斬る絶妙の技と、天地一パイに満ち充ちた威風あたりを払ふ霊力、即ち心の位ひを得度いものである。
之は何に依って得らるるか、畢竟幾千万回の技の鍛錬と心の清明を養う修養に存する所であろう。霊 妙 之 剣 風 唯 存 一 心
(23・11・3)
記十七、吾が修養の目安居合は常に生き活きとした業でなければならぬ。
形は如何に立派であっても生気の無い業は所詮は死物である。
一刀一刀の刀勢とその業を一貫する気魄に其の人の生命が脈々と流れて其の業が生きる、(精神の集中と気魄の貫通)それはとりもなおさず不断不退の精進にまたねばならぬが、何人と雖もその心懸けが大切である。
居合の修錬は徒らに多くの業を求めずとも、唯一つの業を精習して之を会得する事が上達の秘訣であり、業の遅速、軽重、強弱、変化の面に鋭い観察を下し、業の理合ひを究めて其の一を得れば他の凡百に通ずるものである。
一を修めて百を会得し得ぬものは唯だ漫然と生涯を過ごす者と云わねばならぬ。
然しながら業に気魄が満ち、生き活きとしたものであっても業そのものが卑俗であってはそれは下らぬ生きものである。
故に斯の道に志すものは、常に心懸けて、高雅、清明、謙虚な品性を養う事を努め、技の統一の中に変化を蔵した品位と無限の風格のある居合を行じ度いとひたすら日夜念ずるものである。
古言に 云 ふ は 易 く 行 ふ は 難 し 行 ふ は 易 く 得 る(悟 る)事 は か た し と 深く慎み努めざるべけんや。
(33・1・1 記)
長い引用になりましたが、今回で「無雙直伝英信流嘆異録」からの引用は終了させていただきます。改めて河野先生の文章を書き写しながら、目指す高見の遠さを実感するばかりです。
「早抜き」、冬の寒い道場で誰も居ない時、ウォームアップにはいいかもしれませんが、やりすぎると技が崩れそうで何の益もないな、と云うのが筆者の実感です。
もっとも、相当に技が練れて来てからウォームアップに使うならいいのかも知れません。
初心(五段位まで)の内は絶対にやらない方が宜しいかと思います。ご精読感謝致します。
2013/7/16 国際連盟ブログより再掲
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