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平常心って?
こんにちは。
今日はお約束通り「平常心」と云う事について考えてみようと思います。
ブログを書くにあたって、平常心を国語辞書で引いてみると、驚いた事に「平常」はあっても、「平常心」の項目は無い(広辞苑・角川国語辞典)のです。
あまりにも当たり前すぎるからなのか、私の辞書が古すぎるのか・・・
よく大会や昇段審査の演武の前に、先輩から“平常心でいけよ!”とハッパを掛けられたことはありませんか?
私は、平常心を”何時もの気持の状態”と理解しておりましたので、先輩方はこの演武の最中上がることは無いのだろうか?居合をやっていない時の心の状態で演武しているのだろうか?スゴイものだ!と、感心し、自分には到底無理だと思いこんでいました。
皆さんは、『平常心』について先輩諸氏から何かレクチャーされたことがおありでしょうか?
私はそう云ったレクチャーは無かったと記憶しております。
ただ、『平常心』『平常心』と・・・
武道で云うところの『平常心』って何なんでしょうか?
居合に限らず、剣道でも柔道でも空手でも必ず試合等に臨む時に云われる言葉、『平常心』。
もし、”何時もと変わらない気持”と云うように解釈されるのならば、「勝ちたい」「恰好よく見せたい」「昇段したい」「ギャラリーの視線が気になる」等々、およそ何時もの気持ではいられないのが本音です、少なくとも私にとっては。
前置きはさておき、私が考えた『平常心』は、云うなれば『非日常的非常心』です。
武道の世界の試合とは本来 生死を賭けた戦いであり、そこに日常的な心持など入る余地は皆無です。
戦いは非日常であり、その場面にいつ遭遇しても対処できるように、勝てるように日々鍛錬し、稽古を重ねるのです。
鍛錬に鍛錬を重ねた先にある、どのような状況にも対処できる身体と精神。
それを、称して『平常心』と云ったのでしょう。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」と云った禅僧の心持と同じなのではないでしょうか。
現代の我々に置き換えてみればどうでしょう。
我々武道を志す者にとっての『平常心』とは、常日頃の心の状態などでは、やはり無く、非日常的非常心なのです。
初心の者の身体と精神と、長年それに関わって稽古してきた者の身体と精神は同じではあり得ません。
長年それに関われば関わるほど、非日常的状況に対処できる身体と精神は鍛え上げられていくのは自明の理です。
夫々の年月、稽古の度合いにより『平常心』は変わって行くものなのです。
先輩諸氏は、自分もかつては初心者であり、その時如何しようもなくドキドキしたり、震えたり息が上がったりしたはずなのですが、忘れてしまって、今の自分の状態を『平常心』として後輩に投げかけているだけなのが現状なのではないでしょうか?
初心者の皆さん、上がったりドキドキしてもそれは何の問題もない、誰もが通る道なのです。
平常心では無く、非常心だからです。幾ら年月を経ようが、ドキドキし、迷ううのです。
レベルの差こそあれ、です。
我々は自分のレベルなりの『平常心(非常心)』をキチンと認識して日々の稽古に臨みましょう。
次回もお楽しみに。
2013/12/20 国際連盟ブログ より再掲
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